言語化が得意なことの弊害

私は考えても答えのない問題、自分ではコントロールできないことについてずっと考えるクセがある。そしてそれを言葉にして、人にシェアしたり表現することもクセで、言葉になりづらい現象や感情を、言葉にすることが得意。


というかそれが私にとっては普通のことで、子供のころから無意識にやっていること。大人になって、皆が皆そうじゃないんだ、と知った。


あらゆる物事に対して、なんで?という問い掛けが自然に生まれてきてしまうので、自分に対しても世界に対しても、疑問がたくさんあるのだ。

「思考停止しない」ということは、仕事において前例がないことやゼロから何かを生み出すときに、考え続けられることが苦でないため得に働き、職能として評価もされやすい。


いっぽうで、人間の生死という、もっとも考えたってしょうがない、、というか、答えのない問題について、考えすぎて想像力をふくらませ、不安の坩堝に入ってしまうこともある。これが不安神経症(心気症)だ。


先日、人の脳の働きにおいて、以下のようなことを聞いた。


意識できない脳の働きは非常に高速で膨大ないっぽう、言語脳の処理速度は遅いので、情報処理が渋滞する。そのため、意識の大部分が言語脳の働きで占められてしまいます。でも実際は非言語脳は絶えず働き続けています。


ポイントは言語脳の処理速度は遅いので、意識の対部分が言語脳の働きに占有されてしまう、というところ。


この話を聞いて、何かにつけ感情や思考を言語化するクセ、そしてそれに精神がひっぱられてしまう理由がわかった気がした。


つまりもともと脳は、思考(意識)に引っ張られやすい情報処理状況になっているのだから、内省的な人が、意識を優先し言葉化に囚われ、歪んだ思考になりやすいのは、ある種当然なのでは、、と。


私の場合その意識がそもそも歪んだ思考からきているので、それに気づけないとネガティブな思考が悪循環してしまう。


認知行動療法や脳科学などは、自分の治療としても役立っているし、単純に興味があるジャンルだから面白いのだが、知れば知るほど、脳がやってることの複雑性と未知さが怖くもある。


「考えたってしょうがない」。


何度言われたか知れないこの言葉。私だって考えたくないし、思考停止したいけれどできないし、それが私なんだと、受け入れるほかない、というのがいつも出る答えなのだけど、なかなかそう簡単にはいかないのだ。

よく生きる

不安神経症(疾病恐怖)のリハビリとして他人の死生観を集めたり、役立つ情報を自分のために溜めています。

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